つばめ学院の関口です。
最近、ベネッセと朝日新聞主催の「語彙・読解力検定」というものに興味津々です^^
この検定、本当に良くできていているんです。
単純な語彙力だけではなく、新聞に出てくる語彙が学べる検定になっています。
「言葉を知る」ことで、新聞や世の中に対する関心度は大きく変わります。
学校の成績も大切ですが、こういう知識は世に出て確実に役立つものだと感じます。
せっかくなので、そんな「言葉」や「知識」に関係したお話を書きます。
無知である
つまり「モノを知らない」という事って、「無害」なことだと思っていませんか?
とんでもないです!
無知であるということは非常に恐ろしいことなんです。
以前、塾の生徒とISについて話しをしたことがあります。
「なんで自爆テロなんてやるんだろうね。。。」
「そんな事、知らないですよ」
「いや、だって。死ぬんだよ、自分が。嫌でしょ、ふつーは」
「あんな狂ってる奴らの事なんて理解できるわけないですよ」
そんな会話でした。
もちろん、中学生の率直な意見だし、「けしからん」考え方ではないです。
ただ、恐ろしさも感じたんです。
「あのさ、ISだって人間じゃん。テロを擁護する気はさらさらないけどね。でも、彼らがテロをするって事は何か理由はあるんだよ。僕らに理解不能な理屈かもしれないけど、なんか理由がある。そして、その理由を理解しようとする努力は怠ってはいけないことなんだよ。」
そんな事を話しました。
当然、中学生はきょとんとしますが^^;
もう少し補足させて下さい。
私はこう考えています。
「人は相手を”理解不能な存在”だと考えた時から、相手にどんな事でもできるようになる」
例えば。。。
いま、町中にニホンザルが大量に発生したとしましょう。
そして、何故かそのサル達は意味なく人間に対して攻撃的な性格になってしまっていると。
きっとそんな時、私は家族を守るために必死にサルと格闘すると思います。
「家族を守るため」ならば、サルを殺すことに何の良心の呵責も感じないと思います。
同じ状況だとしても、人を殺すことには抵抗があります。どんな状況であれ、やはり人を殺すのはとても抵抗があると思います。想像ですが。
そして、さらに想像なのですが。。。
日本が原爆を落とされたという悲劇。
あの裏側には、この「理解不能」という感覚があったのではないかと思っています。
アメリカの兵士からすれば、「特攻」という作戦を行使する日本人はまさに「理解不能な人間ならざるもの」だったのではないでしょうか。
そうだと考えなければ、とても原爆なんて落とせるものではないです。
いまISのテロリストを「理解不能な存在」にしてしまうということは、取りも直さず、その相手にはどんな手段も使えてしまうという感覚のもとになります。
それを防ぐものが「知識」と「想像力」ではないでしょうか。
なぜテロがなくならないのか?
なぜ命をなげうってまで攻撃をしているのか?
何を彼らは求めているのか?
正確な情報と健全な想像力こそが、相手との「対話」をひらく人類の財産だと信じています。
その一歩としての語彙
まずは「言葉」を知り関心を持つ。
全てはそこから始まるのではないでしょうか。
「知らない」「知ろうとしない」
ということは、実は非常に恐ろしいことです。
最後まで読んで頂いてありがとうございます
コメントをお書きください