つばめ学院の関口です。
本日は「言葉の使い方」のお話を書こうと思います。
私は生徒達に対してこう望んでいます。
「平易な言葉」
ではなく
「多彩な言葉」
を使いこなす人になってもらいたい。
たまに耳にすることに、「小難しい言葉ばっかり使ってんじゃねーよ!」という批判がありますよね。
こういう事を言う人に対して、正直私は知性を感じません。全く。
自分の知らない言葉が出た時に、「どういう意味で使ってんの?」と聞けば済むことです。
相手が特定の業界でしか通用しない専門用語ばかり使っているようなら論外ですが、そうでない場合には相手に「何らかの理由がある」と考える方が自然です。
特にカタカナ言葉に対してアレルギーが強く、「普通の言葉で話せよ」という人を見かける事があります。
例えば、、、
「これはビジネスだから」
と言うのと、
「これは仕事だから」
では、その意味する内容が少し違う気がしませんか?
それを「何だよ!ビジネスって。仕事って言えばいいじゃねーか」
なんて言われてしまうと、「言いたい内容を正確に伝えられないんだよな」と歯がゆい気持ちになりませんか?
アバンギャルド
クリティカル
イシュー
マインドセット
etc…
どれも他の言葉で表現はできるかもしれませんが、正確には表現しきれない「何か」がそこにありますよね。
つまり、言葉が多彩な人ほど「感覚が細分化されている」のではないかと思うんです。
言葉に多様性がない人は、1つの言葉を多くの場面で使います。
結果として「ぼんやりした世界」を生きているのでないか?と私は感じています。
「言葉と感受性」
について、例をあげてお話します。
つい先日の小学生クラスで、「わび・さび」の話しをしました。
驚いたことに「わび・さび」という言葉自体、初めて聞いたという子も少なくない状況でした。
そして、前段として「侘しい」と「寂しい」の意味を説明します。
もちろん、ちゃんと平易な表現と例えを使えば小学生でもすぐに理解できます。
そして確認してみると、全ての生徒が「侘しい」も「寂しい」も、「さびしい」と表現していました。
言葉を知っていれば、「侘びしさ」と「寂しさ」を別々に感じることができます。
そして、その感覚の中に美意識を見出すのが日本人固有の感覚の1つです。
私はよく「たくさんの言葉を知ることは、心が豊かになることにつながる」と話しています。
人は言葉によって「見えない感覚」に境界線をひいていくものだと考えているからです。
生徒達には、「そんな小難しい言葉ばっかり使ってんじゃねーよ」という大人ではなく、その時々の自分の気持ちを多彩な言葉で的確に表現できる大人になって欲しいと思います。
それこそが、「感性が豊かな人」ということなのではないかと思うのです。
最後まで読んで頂いてありがとうございます。
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ごりんごりんご (土曜日, 26 3月 2016 23:02)
ことばを「紡ぐ」と言いますね。
そこには、ことばを届けようと心が働いているのですね。
しっかり受け止められる自分になりたいと思います。