勉強で身に付くもの

つばめ学院の関口です。

 

今日は「勉強を頑張る事」によって得られるモノについて書いてみようと思います。

 

勉強を頑張ると。。。。

 

・学力(派生的に知性)

・自信(派生的に素直さ)

 

を身につけることができます。

 

すぐにはピンとこないですよね。

 

また、順を追って説明します。

 

 

 

 

まずは「学力」

 

勉強するんだから学力が身に付く。

 

これは、分かり易いですよね。

 

そして、その後が大切なのですが、「知性」を身が身に付く可能性を手に入れます。

 

私の認識で「知性」とは、

 

知恵や知識に価値を見出す姿勢

 

だと考えています。これは、辞書の定義ではなく私の解釈です。

 

例えば、新聞で情報を得るとします。

 

新聞やニュースが世の中の出来事を「ありのまま」伝えているという事はありませんよね。

 

そこには、「伝えての意識」が必ず反映されます。

 

ニューズの動画をただ流すにしても、どういう画像をどの程度流すかという編集の「意図」が介在します。

 

良いとか悪いではなく、「そういうものだ」という事です。

 

当然、より客観的な知恵や知識を求めるためには、1つの事象を複眼的に見る必要がどうしても出てきます。

 

そういう情報を集める基礎をなすのは学力です。

 

また、集めた情報を総合して自分なりに理解するためにも学力は必要になります。

 

 

つまり、学力がベースとなり、将来、健全な知性を身に着ける可能性が大きくなります。

 

 

 

続いて、自信です。

 

これも良いですよね。

 

「頑張った自分」は誰もが誇ることができます。

 

それだけで十分な事なのかもしれません。

 

しかし、「知性を伴った自信」は謙虚さを備えます。

 

大人でも良くある事です。

 

自分の存在に自信が持てないと、

 

「攻撃された」「バカにされた」

 

と勝手に解釈してしまいます。

 

 

例えば人前に出した書面の漢字が違うと指摘されたらどうでしょうか。

 

「ありがとうございます。すぐに直します」

 

と言えれば、何も起きることはないんです。

 

意外と多くないでしょうか?

 

「そんな事、気付いていたのに!」

 

「人前で恥をかかせた!」

 

そういきりたつ人というのは、「謙虚さがない」というよりは「自信がない」んだと思います。

 

なぜなら、

 

「基本的な漢字は正しく書ける」

 

という人であれば、「なんだ、そんな漢字も書けないのか」と思われる心配がないからです。

(実際は書けることを自分が分かっています)

 

だから、人前に出したものに間違いがあれば、素直に直せるし、指摘してくれた人に感謝できるんです。

 

 

でも、自信がない場合はどうでしょうか。

 

「バカだと思われたくない」

 

その思いから、自分の「名誉回復」が最優先事項になります。

 

時に人を攻撃してしまうかもしれません。「謙虚である」ためには、まずは「自分自身が自分を認める」ことが大切なのではないでしょうか。

 

 

勉強する事も、知識を身につける事も本当の目的には成り得ません。

 

 

そうではなく、

 

「誰に何を言われても、ゆるがない自分」

 

を手にすることが、「勉強する事の目的」には含まれているのではないかと思っています。

 

 

 

最後まで読んで頂いて、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

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コメント: 2
  • #1

    ごりんごりんご (金曜日, 12 8月 2016 08:40)

    先生、いつも素敵な学びを有難うございます。
    ただ、今回は謙虚さについて少し異論があります。
    上手に言えないのですが、
    学力で得る謙虚さは、相対的ではないかと思うのです。
    本当のそれは、人間のどろどろした中で、気付いたり失敗したりあるいは目を見張るような人物と出会ったりしながら磨き上げるものではないかと。
    そうすると、哲学や宗教など生きる規範を持つことがベースだと考えます。
    今日の主題から外れていましたら申し訳ありません。

  • #2

    関口良孝 (土曜日, 13 8月 2016 11:10)

    ごりんごりんごさん

    こちらこそ、いつも的確なコメントを頂きましてありがとうございます。
    返信が不定期になってしまい申しわけありません。

    ご指摘の件ですが、私の認識とそう大きな相違はないのかと感じています。

    ごりんごりんごさんがご指摘されている
    ・学力による謙虚さは相対的である
    ・相対的とは人間関係の中で磨かれる
    ・ベースとなるのは哲学や宗教になるのではないか

    という点について、大いに共感します。

    私がこのブログで書いた「謙虚さ」という言葉は、ご指摘の内容よりもっと「前の段階」に関するものかもしれません。

    つまり、相対的な人間関係の中で鍛えられる「謙虚さ」を持つためには、まず「自分で自分を認める」ことは不可欠だと思っています。
    そうでなければ、人間関係の中から学ぶ事ができないからです。

    「絶対的な自分の殻」に閉じこもってしまう。

    人の意見に耳を傾けられない。

    そうやって、謙虚であることを失っていくのだと思っています。


    明確なご回答になっているか自信がない部分もありますが、どうぞよろしくお願い致します。