つばめ学院の関口です。
今日は最近読んだ本が素晴らしかったので、そのご紹介から致しますね。
「最終講義」
内田樹著
著とは書いたのですが、厳密には内田先生の講義録です。
教育者として「学問とは」「教育とは」という問に真正面から真摯に取り組む内田先生のエッセンスがたっぷりでした。
特にその中で一番印象的だったのは、
「学びの価値は、学ぶ前にそれを知ることはできない」というお話でした。
つまり、
何かを学ぶ前に
「それって何の役にたつんですか?」
「それを学ぶとどんな良い事があるんですか?」
という問は本質的に意味をなさない。と。
なるほどーー!!
講義では「ものさし」を持った子の例が出てきます。
「先生、それの重さは何センチですか」
と言って、「ものさし」を持ってきても意味がないですよね。
何かを「学ぶ」という行為は、それまでの度量衡を越えて新しいモノサシを手にする事。
いままでのモノサシでは計量できない「何か」を知る行為なんです。
それを、古いモノサシに無理やり当てはめる事は何の意味もないんです。
だからこそ、その時の回答としては
「いいから、まあ聞け」
なんだそうです(笑)
いや、当たっています。本当に。
(私がそう感じるという事ですが)
勉強すれば、受験に合格して、いい仕事に就けて、お金を稼げて・・・
って、どれも「学ぶ」理由としては弱い。
私が強いてあげるならば、「幸せな人生をおくるため」です。
これは言い逃れでも方便でもなく、本気で思うんです。
人は「学ぶ」ほどに「幸せ」を感じることができます。
なんの勉強もせず、ただ遊んで、テレビ見て、ゲームして・・・
そういう生活の先にも、それなりの生活は待っているかもしれない。
でも、そういう子の人生には「お金」しか価値を計る指標がないんです。
金持ちは幸せ、貧乏は不幸せ
のような。人の人生がそんな1次元的に計れるわけがないんです。でも、それ以外の「幸せ」の存在を知らない。。。
だから、なんとかして金を稼ごう。という発想しか出てこない。
お金を全否定する人もまた、同様に1次元的だと思っています。
本来の「学び」とは、その価値観に「新たな次元軸」を追加する行為です。
学べば学ぶほど、自分の人生が多層的になる。昨日と同じ景色がまったく別の意味をもって立ち現れる。
そういう経験のためにこそ、勉強があるのだと思っています。
つばめ学院の教室は、そういう「学び」を体感できる場でありたいと強く思っています。
最後まで読んで頂いて、ありがとうございます。
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