つばめ学院の関口です。
今日はちょっと気になったニュースについて書きますね。
記事では
記述式の学校別採点について、
“「複数大学を併願した場合、大学ごとに解答の評価に違いが生じる」と指摘、受験生に混乱を与えるとして反対する意見を公表した。”
とあります。
これは非常に不思議な発言です。
これまでの「画一的」な評価基準ではなく、より個々人の「考えたプロセス」を評価しようという事が目的だったはず。
だから、「評価の違いが生じる」のは当然で、それを歓迎しないといけないんじゃないかと思うのです。
そして、塾人は「そういう」仕組に対応できる人財を育てていくわけです。
この連合会はいまだに「正解」にこだわりすぎています。
「世の中の正解なんてない」からスタートして、それを教えていくべきはずなのに。。。
少し具体的に話を書きたいと思います。
この記事の「評価の違い」を具体的に言うならば、「日大には落ちたけど、早稲田には受かった」ということが起きうるという事かと思います。
(いまは、一律の偏差値をベースにした選抜なので、そういう事は起こりにくいです)
いいじゃないですか。
何かを表現するという事は、必ず「認めてもらえない」というリスクと隣合わせ。
どんなに自分が正しいと思って表現したものであっても、評価者の基準とはズレがあった。
そういう事が起こりうるという事ですよね。
そして、教育者は「たとえ評価されない事が起こったとしても、自分が表現したものに自信と責任を持て。そういう答案を作れ。そして、それを評価してくれた人に感謝しろ」
そういう教育を進めるのではないでしょうか?
記述式によって多様性を評価する。
それは、
「多様性」というものを評価する統一のモノサシを作るという事ではないはずです。
そして、そんなものは社会に出たら存在しない事くらい、明白な事実のはずです。
だからこそ、つばめ学院の中学生達には「自分を表現する事」を求めています。
どう思うのか
なぜ思うのか
根拠はあるのか
そういう問いかけに、しっかりと考えを持って答える子。
考えが未熟ながらも、なんとか答えようとする子。
そういう子が確実に増えています。
世の中の「本筋」を注視していれば、制度なんてできていなくても出来ることはたくさんあります。
おそらく、つばめ学院の中学生達の背中を追って、入試制度が固まったくると思います。
この教室で日々行われているのは、「そういう」教育なんです。
最後まで読んで頂いて、ありがとうございます。
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