生きてて良かったぁ

つばめ学院の関口です。

 

google翻訳が進化しているようです。

 

 

Google翻訳が神に AIによる自然言語処理の劇的進化で幾つかの業界再編必至Google翻訳が神に AIによる自然言語処理の劇的進化で幾つかの業界再編必至

 

こんな記事を見つけました。

 

実際に私も試してみましたが、非常に良くできています。

 

おそらく、このような技術がスマートデバイスに搭載され、日常的に身につけるようになる。

 

すると、(今もあるけど)同時通訳なんかが普通にできるようになる。

 

もう、英語をはじめとする「外国語」をマスターする必要はなくなるのではないか。

 

そう感じてきてしまいます。

 

 

私の私見ですが、おそらくそうなると思います。

 

「英語なんて話せなくても、旅行に行く程度なら全く困らない」

 

そして、そこで「英語を学ぶ意義がなくなった」と考えるのは早計だと思います。

 

 

少し話しが逸れますが、「便利な世の中」という言葉が頭に浮かぶ度に思い出す映画のシーンがあるんです。

 

「バック・トゥ・ザ・フューチャーⅢ」のワンシーンです。

 

西部開拓時代にタイムスリップした、ドク博士が当時の人に「車」の説明をするんです。

 

「は?じゃあ、なにかい。おたくが言うには、クルマとかいう鉄の塊が人や馬より速く走ると(笑)。」

 

「そのとおり」

 

「そら傑作だ(笑)。じゃあ聞くがな。お前さんのクニでは、人はもう走る必要なんでないじゃないか。」

 

「人は走るさ。ただし、それは健康のためにだよ。」

 

 

現代人の我々は、急ぐ時に走る、という事はないと思います。

 

電車や車を使った方が速いですから。

 

でも、「走る」ことはやめません。

 

 

この感覚は、「幸せ」の本質につながる気がしているんです。

 

人は「必要ではない」ことに対して、「やらない」とはならないんです。

 

むしろ、「必要ではない」ことに対して、幸せを感じる。

 

だからこそ

 

「必要ではない」ものを積極的に取り入れていく事が、「幸せ」につながるのではないでしょうか。

 

 

人が生きていく事だけを目的にするならば、料理の味なんて「必要ない」んです。

 

エネルギーと栄養を補給すれば生きていきます。

 

でも、そこに幸せはない。

 

趣向を凝らした料理に舌鼓をうつ。

 

懐かしい家庭の味に感激する。

 

そこに感動があり、幸せを感じますよね?

 

 

私は本を読みますが、これは「必要だから」読むわけではないです。

 

塾の仕事をしている身だとしても、「本を読まないと仕事が全くできない」なんて事はないです。

 

でも読む。

 

それは、本を読む行為の先に「幸せ」があるからです。

 

 

勉強も同じ。

 

「その勉強は、何の役に立つんですか?」

 

という質問は、もう手垢にまみれた質問かもしれません。

 

この質問の根底にある心は、非常に貧しいと言わざるを得ないと思います。

 

なぜなら、「必要なものだけ」を集めて生きていきたい。という考えに基いているからです。

 

「必要ではないもの」には、できるだけエネルギーをかけたくない。

 

そんな生き方は、幸せとは程遠いし、非常に虚しいはずです。

 

いつの間にか「必要なもの」ばかりに囲まれた生活をしている大人だって少なくないと感じています。

 

でも、そこに幸せはないんです。

 

 

 

「あー、生きてて良かったぁ」

 

なんて感じる「幸せ」は、確実に「必要のないもの」の中にあります。

 

 

子供の頃から、「必要のないもの」に敏感に反応し、そこに没入する方が、結局は幸せへの近道のように思います。

 

「必要じゃない」からこそ、そこに「幸せ」の匂いを感じる。

 

そういう考えも素敵ではないでしょうか。

 

 

最後まで読んで頂いて、ありがとうございます。