「色」のはなし

2018年8月6日

Vol.763

 

つばめ学院の関口です。

 

今日は塾の教室でお話したこぼれ話をお伝えできればと思います。

小学生の授業で「哲学」の入り口のようなお話をしました。

 

 

小学生の時の疑問

私が小学生の頃に抱いていた素朴な疑問を小学生達に紹介しました。

こういった問題を「面白い」」と思えるのであれば、哲学の本を読んでみるといろいろな発見があるかもしれません。

 

小学生の私にとって「哲学」は全く身近ではなかったので、先人の知恵にアクセスするまで結構な遠回りをしました。

 

私の疑問は次のようなものでした。

「色」に関するものなんです。

 

私の脳に何らかの疾患があったとして、、、

私が感じている「赤」と「青」が、他の人の感じる「赤」と「青」とは入れ替わって感じていたらどうなるのか?

そんな疑問を感じていたんですね。

 

 

違う色を見ていても会話はつながる

もし私が見ている世界「だけ」が「赤」と「青」を逆に認識していたとして、この状況は友達との会話で分かるのか?

という疑問が真っ先にあがりました。

 

もしも、赤と青が逆だったとしても、友達との会話は支障なく成立すると思うんですね。

赤といえば、トマトやポストの赤です。

青といえば、空や海の青です。

 

「私にとっての赤」が、いわるゆ「普通の人がいう青」だったとしても、私の世界では「赤」のすべてが「いわゆる青」で見えてしまっているので、見事に他の人とは普通に会話ができる事になります。

 

いや、もっと言えばこれは「人に伝えること」ができないはずなんです。

(「伝えられない事」をブログで伝えようとしているというこの矛盾)

 

 

これは仮想の話なのか?

さらにお話を進めると面白いことが言えます。

この事は「本当の意味では他人と共有できない」と言えます。

 

ん?

これって仮想の話なんでしょうか?

 

私にとっての「赤」と、他人にとっての「赤」は本当に同じなのでしょうか?

赤と青が入れ替わるのは極端であれば、

私の「赤」と他人の「赤」が少し違った見え方をしている可能性は否定できないはずなんです。

 

こういう話をすると、ちょっと物知りの小学生は「色のカタログ」のような標準値と比べる事を主張したりします。

ただ、この「色のカタログ」ごと私にとってはズレて感じるわけなので、やはり「他人の感じ方」と比べた事にはならないはずです。

 

ここまで読んで頂いた方はどう感じられたでしょうか?

「だから何なんだ?」

と感じた方は正常だと思います(笑

 

私も何度となくそういった反応に出会ってきました。

「何の意味があるの」「何が言いたいの」

というのは普通の反応です。むしろ、こんな事をつらつら考える方が変わっていると思います。

 

しかし、この「変わった話」を「面白い!」と思う人間が一定数はいるんです。

意味がなくても、役に立たなくても、面白いから考えてみたい。

もし、お子さんがそういう「感じ方」をする子であれば、哲学の本を読んでみると世界が広がると思います。

 

自分と同じような感覚で生きた先人達が、私の話なんかよりはるかに鋭い洞察力で、はるかに深く考察しています。

そういう「出会い」というのは、ある種の興奮を伴った喜びでもあります。

 

お子さんは哲学を考えたりしていませんか?

 

最後まで読んで頂いてありがとうございます。