2019年1月28日
Vol.778
つばめ学院の関口です。
久しぶりの更新になってしまいました。
ただいま、つばめ学院を変えるべく塾内では様々な取り組みを行っています。
(それが、ブログ更新をさぼった言い訳ということなのですが・・・)
取り組みの内容はこのブログでもご紹介していきたいと思っています。
生徒と保護者に本物の感動をご提供する場所として、つばめ学院を再定義しているところです。ご期待下さい。
必要のない勉強
やっと本日の本題です。
今日は年初に少し話題となった記事をご紹介しようと思います。
橋下徹さんが、「三角関数は絶対必要な知識なのか」と題してプレジデント・オンラインに寄稿されたものです。
橋本さんの意見を一部抜粋します。
(できれば元の記事を全部読んで頂きたいです)
三角関数なんか深く知らなくても人間的に立派な人、仕事を成功させている人、人生を謳歌している人たちはたくさんいる。むしろ、ここで三角関数は絶対に必要だ! と喚き散らしている人たちよりも、仕事面でも、収入面でも、生活面でも人生充実していることの方が多いんじゃないか? 僕は自分の人生の中で、そういう人たちをたくさん見てきた。だから「人生において三角関数は絶対に必要不可欠な知識ではない」と断言できるんだ。
橋本さんはテレビで「三角関数なんて大人になってから使ったことがない。」と発言し、Twitterで反論を受けたようです。
反論の中には様々な実社会で三角関数が利用されている事や、三角関数の素晴らしさを説いたものが多かったようです。
「三角関数の必要性は認める」としたうえで、「三角関数は(すべての人に)絶対に必要不可欠な知識ではない」と言っています。
使わないけどわりと大事
少し身近な例で考えてみようと思います。
「三角関数は本当に不要な知識なのか?」
実はこの記事を読んでから、教室で生徒に質問をしてみました。
三角関数を学ぶ前の小中学生達にです。
「みんなで少し考えてみたい事があるんだけどさ!」
「えーなに?」
「うーんと。あ、あの窓から見える木があるじゃん。あの高さって何メートルくらいあるんだろうね。」
「えー!わかんないよ。。。4mくらいかなぁ」
「そっか、でも先生が3人縦につらなったら、1.7☓3=5.1mだよ。」
「もっと高そう!!」
実際はもっとガチャガチャしますが、そんな感じです。
「あのさ、あの木の高さを正確に測りたいと思ったらどうすれば良い?」
「定規を使う!」
「え?普通の定規を何回も使うの?もしかして超巨大な定規をつくる?」
「超巨大定規(笑)、それウケる!!あ、メジャーでいいじゃん。」
「なるほど、メジャーをどうする?」
「木のてっぺんから垂らせばいい!」
「なるほど。でも木のてっぺんに上るの大変だね。気が細くなっているし、先生が登ると折れるかも(笑)。あと、垂らすっていいうけど、葉っぱとか枝が多いね。途中でひっかかりそうだ。」
そんなこんなで全く良いアイデアがでません。ま、この生徒達が将来において「木の高さ」を測ることはないかもしれませんが。
一通り意見が出たところで、一つの知識を紹介します。
木の影の長さと、太陽の角度を測る方法です。
それの2つを測ると、
木の高さ = 木の影の長さ ☓ tan(太陽の角度)
です。
悪名高い三角比、tan(タンジェント)の出番となります。
三角比が嫌なら、となりに鉛筆を置いて、鉛筆の長さと影の長さを測ることで代用します。
少なくとも「こういう考え方」を知っているかどうか、使えるかどうか。
そこに価値はあると私は思うのです。
「必要なもの」を追いかける病
私は先の橋本さんのご意見に強い違和感を感じています。
ただ、それは「三角関数は大切なんだ!」と言いたいわけではないんです。
だって、ほとんどの人は大人になってから三角関数なんて使わないですから。
「使わないけど、しっかり学んでおいた方がいいよ」と言いたいんです。
教育課程で学ぶ勉強を、「使う、使わない」で区別すること自体がナンセンスだと思っています。
「いや、せっかくの学習機会なんだから"使える知識"を教えろ」
と思われる方もいるだろうと思います。
では、そういう方と一緒に考えてみたいのですが、、、
いまの学校で教えている勉強の中で、具体的に将来に役立つ知識ってどの程度あるんでしょうか?
算数・数学なんて使わない事だらけですよ。ほんとに。
大人になって誰もが絶対に必要なものなんて、四則演算くらいじゃないですか。
関数も方程式も使わないですよ。普通の生活で。というか、私は使ったことないです。
分数の計算とか使います?使わないです。使いたければ、他の演算で事足ります。
面積の計算とかどうでしょう?
部屋の間取りとかで必要ですよね。でも、「面積が大きいと広く、面積が小さいと狭い」が分かってれば良いんじゃないですか。円の面積の計算方法とかまず使わないです。
使わないのは、算数・数学だけでしょうか?
とんでもないですね。
国語の漢字。もっとも「使う」と思われる漢字ですが、本当でしょうか?
今の私の生活では、「他人に見せる書類」はすべてパソコンで作成します。漢字を書ける必要なんて全くないですよ。
ごく稀に手書きで漢字が分からないときはスマホで調べて書きますが、不自由はないです。
そうだとすれば、小学校の漢字は「書けなくて良い」ので「読める」ように学習すれば良いことになるはずです。
いや、私はそんな事は絶対に反対ですけど。使う、使わないの話をするとそうなります。
もっとすごい事があるんです。
「地球は太陽のまわりを回っている」
これは揺るぐことのない真理です。地動説という言葉でご理解の方も多いと思います。
これって「いらない」ですよね。我々が生活するうえでは。
時代をケプラーやコペルニクス以前に戻して「天動説」を信じていても全く構わないはずです。
だって、生活で「困らない」んですから。
いやむしろ「天動説」の方が、なんとなく生活の実感に近いくらいです。
「そんな事を知らなくても立派な人はたくさんいるんだ」
という理屈を教育コンテンツの話に持ち込んでしまえば、とんでもない事になるはずなんです。
この「使えるの?」を学問に対して問う姿勢は、世の中をおおう病のようなものだと感じています。
使わないから学ぶ価値がある
誤解を恐れずに言えば、「学問は使わないからこそ学ぶ価値がある」と言えるのではないでしょうか。
マズローが言う「生理的欲求」や「安全の欲求」を満たすためのものではないんだと思います。
「生活で使うもの」を身に身につけるって、そんなに大切ですか?
「生活で使うもの」なら、自分で努力して身につけるくらいの人を育てるのが教育の役割だろうと思うんです。
普通のまともな大人は良く知っているはずです。
「自分に必要な知識・技術は自分の努力で獲得するのが当たり前」である事を。
もっと言えば、
「人は生きていくために必要な事は放っておいても学ぶ」と言えなくはないでしょうか。
そして、大人になれば、その「生きていくために必要な事」を獲得する事に忙しくなるんです。
だからこそ、
教育で教えておくべきなのではないでしょうか。
「社会に出たら"使える"知識を身につける事に忙しくなるけど、君の人生を豊かにするためにはこういう事も知っておくと良いよ」という事こそを。
「豊かな人生」をおくる人
を想像してみると、その人が持っている知識は「使わないこと」ではないでしょうか。
私が受験数学を解けるなんて当たり前です。仕事ですから。
魚屋さんが魚に詳しいのも当たり前ですよね。
シェフの料理が上手いのも当たり前。
証券会社の人は金融商品に詳しくて当然。
弁護士は法律に詳しいに決まってます。
証券会社の人が、金融だけでなく歴史・哲学・科学に通じていたらどうでしょう?
金融商品というものを「お金がもうかる」という側面だででなく、社会をより良くする「装置」の一部としてとらえて、人々の「幸せ」に向けて使おうと考えるかもしれません。
私は「直接は使わない知識」が実は自分に大きな影響を与えていることを感じる事が豊かさにつながると信じています。
お子さんにはどうなって欲しいですか?
「使う知識」だけを身につける大人ですか?それとも「使わない知識」にも価値を見出す大人ですか?
最後まで読んで頂いてありがとうございます。