2019年4月19日
Vol.790
つばめ学院の関口です。
先日、都内で行われたセミナーに参加してきました。
そこで「技術の発展が教育に及ぼす影響」について参加者とディスカッションをする機会があったんです。
今日はその時に思ったことについて書こうと思います。
暗記は不要?
知的生産性とインターネットはいまや切っても切れない関係ですよね。
当然ながらその影響を教育も受けると考えています。
その「影響」の中でよく聞くのが「暗記は不要」という考えです。
何でもインターネットのGoogleで検索すれば正確な知識が返ってきます。
「Google先生は何でも知っている」ので、検索の仕方を正しく身につければほとんどの知識は検索で調べることができます。
したがって、誰もが簡単にインターネットにアクセスできる時代には、「数学の公式を覚える」「英単語の意味を覚える」「国の場所を覚える」「歴史の年号を覚える」「理科の化学式を覚える」etc...といった「暗記」は必要なくなる。というお話です。
これって本当なんでしょうか?
私はすごく懐疑的です。
むしろ真逆なんじゃないかと思っています。
つまり、これからは「多くの知識を持っている人」と「知識を持っていない人」の格差は拡大する方向に向かっていくのではないか。私はそう感じています。
諸行無常の響きあり
世の中には「自分の知らない事」がたくさんあります。当たり前ですけど。。。
突然ですが「諸行無常」ということばの意味をご存知でしょうか。平家物語の冒頭に出てくる例のあれです。
私は意味知りませんでした。。。知らないので調べます。
webの辞書で調べると簡単に意味が出てきます。
仏教の根本主張である三法印の一。世の中の一切のものは常に変化し生滅して、永久不変なものはないということ。
(小学館 大辞泉より)
いや、本当に便利な世の中になりました。というお話ではなくて。
そもそもこの「諸行無常」を調べる事ができたのは、このことばを知っていたからですよね。
知らなかったら調べられないです。だって知らないんだから。
技術の発展により、私達はいとも簡単にあらゆる情報にアクセスできるようになりました。
しかし肝心の「調べるもの」を知らなければ、結局は何も調べることができません。
「諸行無常」の意味を知らないどころか、気にも留めないままおわることになります。
インターネットがいくら進歩したところで、その技術を「近所のうまいラーメン屋」を探すためだけに使っているのではもったいないです。
(それはそれで重要な使いみちですけど、、、)
「知らないこと」が大切なんじゃないか
多くの子が勘違いしていると思うのは、私達は「知っている事」を増やすために知識を得るわけではないという点です。
むしろ知識を得ることで分かることは、「自分はいったい何を知らないか」という情報ではないでしょうか。
私がよく「知識の風船理論」と言って生徒に話すことがあります。
私達が「知っていること」を風船の中の体積で表します。
風船の外側は「知らないこと」です。
ここが重要なポイントなんですけど、私達が「知らないこと」として認識できるのは、風船の表面にある情報ですよね。
つまり「知っていること」の一歩先だけが、「知らないこと」として認識できます。
特別な教育を受けていない人が、「シュレディンガー方程式の解法」」や「セントクリストファー・ネイビスの政治」について「わかんない」と思うことはないわけです。知らないということすら知らないですから。
そして、風船の表面積としての「知らないこと」は、「知っていること」である体積に比例して大きくなります。
知識はむしろ「認識できる"知らないこと"」を広げてくれます。
おそらくインターネットなどの技術は自分の「知らない」を知るために便利な道具なんだと思います。
知識がないという事は、その便利な道具を使う「前提」を満たしていないないという事ではないでしょうか。
知識がある人がよりその理解を深め、知識のない人は何を調べれば良いのかすら分からない。
そういう世界になっているのだと思います。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。