勉強は「役に立つ」という話

2020年9月28日

vol.864

 

つばめ学院の関口です。

 

今日は「なぜ勉強するのか?」をわりと真面目に書こうと思います。

このテーマは塾人にとっては永遠のテーマとも言えるもので、私も実は相手・状況によって数パターンを使い分けています。

そして、その根本は1つなんですが、やはりその1つも常にアップデートを重ねています。

 

2020年の間は「これかな」と思うところまで頭の整理ができたので、今日はその事について書かせて頂きます。

はじめに断っておきます。今日の話はショートカットが難しいので、端折ることができません。結論までしばし、お付き合いをお願いします。

 

 

とりあえずはレジェンドの動画を

私が大好きな動画があります。

植松努さんの「思うは招く」というTEDのプレゼンです。

 

もしご覧になっていない方は是非ご覧になってみてください。

 

 

 

植松さんの動画の中で、ある問いかけがあります。

 

「フェラーリの車が手に入るのは、"お金があるから"なのか?」

という問いかけです。

そして、植松さんはNOを突きつけます。

 

「フェラーリの車が手に入るのは、それを作っている人がいるからだ。」

という事なんです。

 

正直に言うと、私は最初にその意味が分からなかったんです。

「それって同じことじゃないの?」と思ってました。

作る人がいないと手に入らないけど、それと同じくらいにお金がないと手に入らないし、、、と。

 

でも、それは大間違いでした。

本質的に違うんです。

 

誰かが作らないと「それ」は存在しない。

いくら「お金」があっても、「それ」は生まれない。

 

いくらお金があっても、フェラーリがないと手に入りません。

フェラーリが存在していれば、お金がなくても手に入ることはあります。

 

「お金」と「もの」は本質的に違いがあるんです。

 

 

人間が他の動物と違う点

人間は他の動物と違うと言われています。

まあ、「お前が人間だからそう思いたいんだろ」というツッコミもあろうかと思いますが、やはり明確な違いがあります。

 

それは、人間が「社会的な動物である」という点です。

 

言葉を話す・道具を使う・二足歩行・etc...

人間を他の動物と区別する特徴はいくつか挙げられるかもしれませんが、決定的に違う点はこの「社会性」です。

 

「社会的な動物」という言葉が難しく感じる方もおられるかもしれませんが、ここではそれほど難しい意味では使っていません。

私は

「衣食住を誰かに依存している」という程度の意味で「社会的」という言葉を使っています。

 

これは良いと思います。

このブログを読んでいる人のなかで、

「今晩のおかずは、お父さんの猟の結果次第」とか

「いま着ているものは全てお母さんが縫いました」とか

「家は10年がかりで木材を切り出すところから家族総出で作りました」という人はいないと思います。

 

食べるものはヨーカ堂で買うし、着るものはユニクロで買うし、住んでいる家は間違いなく「自分以外」が建てた家のはずです。

そして、その「私」はおそらく「衣食住」のための行動はごくわずかで、時間の多くは「仕事」に費やしているはずです。

「私」の「衣食住」を支えてくれている「誰か」は誰のためにやっていいるかは分からない事が当然です。

今日の晩ごはんで食べた鮭は、間違いなく「誰か」が捕ったものですが、食べている「私」はそれを捕った「誰か」を知りません。

そして、捕った「誰か」もまた「私」が食べていることを知りません。

 

そうした「高度に分業化」した社会に生きていることが人間の最大の特徴なのではないでしょうか。

 

 

勉強は役に立たない?

やっとお話がスタートに戻ります。

 

「なぜ勉強をするのか?」というお話でした。

ちがう角度から言えば「勉強をする意義は何か?」です。

 

この疑問に対する意見の多くはこんな感じです。

「勉強した事が本当に使えるの?」

「数学勉強したって、2次方程式とか日常生活で使わないし」

「歴史が私の生活に役立ったことないし」

「英語が嫌いなら、英語を使わない生活をすれば良いし」

 

でもそれって、「普段の生活」での話ですよね。

もっと言えば「仕事以外の生活」において、です。仕事で使う人はたくさんいるわけです。

そして、

「使える勉強」の幅や深さを広げておくことが、将来の「仕事の幅」を広げることにもつながる事は多くの人にとってなっとくできる話のはずです。

 

「普段の生活」で勉強の結果を使わないのは当然なんです。

「高度に分業化」した社会がそれを可能にしました。

特別な能力がなくとも、個人は社会からサービスをうけることができます。

だから、

個人は社会の一員として、社会に対して何らかのサービスを提供し、社会を構成します。

 

「勉強の成果」が必要なのは、あくまで「社会にサービスを供する側」においてのお話のはずなんです。

しかし、「勉強なんて使わないし」と言っている多くのケースで想定してるのは

「社会からサービスを受ける側」の発言ではないでしょうか。

特に小中高生はそうです。

社会のサービスを供する側にたったことがないから。

 

いま我々をとりまく環境が大きく変わり、かつ不安定になっています。

今日の当たり前が明日の当たり前とは限らない。そんな日々がいつまで続くともしれない状況です。

 

そんな状況を、我々人類は、この「高度に分業化」した「社会」という仕組みで乗り越えようとしています。

人間の強みは「社会」が「個人」を守る仕組み、だと思います。

「社会が守るべき個人」になるために、勉強は極めて協力な武器になります。

 

ぜひ、そんな意識を持って勉強に取り組んでもらえればと思います。

 

最後まで読んで頂いてありがとうございます。